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「インド株の時代が来るのか?」気になった私が学んだインドの歴史を「一冊でわかるインド史」を参考に解説

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こんな悩みを解決!

「インド株がこれから来るらしいけど本当?」
「iFreeNEXT インド株インデックスが気になる!」
「インドってカレーのイメージしかないけどどんな国?」
「世界の歴史、インドの歴史を簡単に理解したい!」
「四大宗教の1つ、ヒンドゥー教の成り立ちを学びたい!」

米国株の時代は終わった!
これからはインド株が熱い!
2024年から始まる新NISAでは、
「グローバルサウス銘柄」を買うべき!
様々な情報が飛び交いますが、
まずは、投資対象とする国について学ぶべきです。

インデックス投資をすすめる理由を「敗者のゲーム」を参考に解説株式投資を始めたい初心者向けに、株式投資で勝つにはどうしたら良いか?なぜインデックス投資が株式投資で負けない方法と言われているのか?について、分かり安く解説します。...

この記事では、投資対象として注目を集めている、
インドの歴史について、
「一冊でわかるインド史」を参考にお伝えします。

結論から述べます。
投資対象としてインドを選ぶべきか?考えるポイントは、
4つあります。

・人口が増えて2023年現在で世界一
・IT大国としての成長が期待できる
・身分制度の問題がいまだに根深い
・中国、パキスタンとの国境問題が存在

これらを考慮すると、大国として成長してくることは間違いないです。
しかし、人口ボーナスが得られるのは確実だとして、
その成長が確実に株価の成長につながるかは未知です。
地政学的リスクも考えると、米国の様に200年株価が上がり続けるのか?
ここは不安要素が多いです。

投資は米国中心のポートフォリオを基本として、全世界株式に投資をするのが良いと思います。

その理由は、「インドが今熱い!じゃあインドの次に伸びるのは?」と考え出してきりが無くなりそうなので、全世界に分散させた方が、時間も無駄にしないし精神衛生上良さそうだからです。

「一冊でわかるインド史」はインドを投資対象として見るべきか?
を主眼にして書かれた本ではありませんが、
インドという国の歴史を分かり安く理解出来る良書です。

「本当の自由を手に入れるため」に私が行ったことを「お金の大学」を参考に解説「お金の大学」を読んでも、全て完璧にはできない! と思った人も多いと思います。 また、「お金の大学」を読んだ人が実際に何をしているのか、 気になる人も多いと思います。 この記事では、「お金の大学」by「両@リベ大学長」を読んで、 本当の自由を手に入れるために、私が行ったことを紹介します。 ...

この記事では「一冊でわかるインド史(監修: 水島 司)」を読んで、
私が学んだことや、考えたことをなるべく分かりやすく解説します。

インドに興味がある方、歴史に興味がある方、
投資対象の選定に悩んでいる方の一助になれば幸いです。
それではお楽しみください!

インドの基礎

インドの面積は日本の9倍程度であり、世界で7番目に大きな国です。
人口は2023年の時点で世界一になりました!
経済指標の1つ、「GDP」はアメリカ、中国、日本、ドイツ、に次ぐ、第5位です。
特に、かつての宗主国であるイギリスを追い抜いたことは大きな意味を持ちます。

インド人は80%がヒンドゥー教徒です。
公用語はヒンディー語と英語、さらに22の指定言語が存在しており、
1万人以上が使う言葉が100以上も存在する多民族国家です。
英語が公用語となっているのは、イギリス支配の名残ですが、
このことがIT産業でインド人が活躍する理由にもなっています。

宗教も、ヒンドゥー教に句分けて、イスラム教、キリスト教、
シク教、仏教、ジャイナ教など他用です。

インドという国を理解するためには、「多様性」がキーワードになります。

1.インド周辺での文明の起こり

・多様性の起源

3-2億年前、地球上にはパンゲアという、
巨大な大陸があったと考えられています。
このパンゲアは分裂し、移動を開始しました。
この中の1つが、ユーラシア大陸とぶつかって、
地続きになったのが、インド亜大陸です。
そして、その時のすさまじい衝撃で形成されたのが、
ヒマラヤ山脈なのです。

山脈によって隔てられた土地であったため、
大陸からの移動は容易ではありませんでした。
そのため、少しずつ人がやってきて、
少しずつ、独自の文化が作られていきました。
また、南北に長い土地であるため、気候も様々です。

・「インダス文明」の起こり

BC2600年頃、インダス川流域を中心として、文明が発達します。
これが、エジプト、メソポタミア、中国と並ぶ、
世界四大文明の1つ「インダス文明」です。

人類は、温暖な気候かつ大きな河のそばに集まり、
集団で生きることで、勢力を拡大させたのです。

インダス川はヒマラヤ山脈からインドの西北部、
さらにパキスタンを通ってアラビア海に注ぐ、
全長約2900キロメートルの大河です。

この河の一帯に肥沃な平原が広がり、
作物がよく育ったことで、文明が栄えたと考えられています。

遺跡としてはモヘンジョダロやハラッパーが有名です。
メソポタミア文明のくさび形文字、
エジプト文明のヒエログリフ、
黄河文明の漢字にならび、
インダス文明にはインダス文字が存在します。
インダス文字はいまだ解読されておらず、
人工知能を用いた解読も試みられています。

また、この頃インドで生活していたのは、
ドラヴィダ人であると考えられています。
そして、庶民の家が比較的立派な作りをしていて、
強大な権力者の存在が残っていないことから、
身分の差もあまり無かったと考えられています。

同様に、武器などもほとんど発掘されていないため、
争いも少なかったと予測されます。
近代まで引き継がれている沐浴の習慣や、
ヨガを行うことは、インダス文明に起源があるという、
様々な証拠も発見されています。

さらに、牛や樹木、地母神、生殖器などが崇拝されていた、
そのような形跡が見つかっています。
これらの習わしはや風習は、
ヒンドゥー教へと引き継がれたと考えられます。

・アーリヤ人の大移動

アーリヤ人は元々ロシア南部に住んでいたと考えられています。
このアーリヤ人はBC2000年頃から大移動を開始しました。
その一部がBC1500年頃に、インダス川上流に入りました。

彼らは背が高く、色が白く、鼻が高いという特徴があり、
自分たちを「高貴な者」を意味する
「アーリヤ」と呼んでいたのです。

・インドという名前の起源

アーリヤ人はインダス川流域を「シンドゥー」と呼びました。
この言葉がペルシア(イラン)へと伝わり、「ヒンドゥー」となり、
ギリシアでは「インドス」となまり、
最終的に「インド」という言葉が生まれました。

そのため、「インダス川」「ヒンディー語」、「インディアン」
といった、言葉もアーリヤ人の「シンドゥー」に起源を持ちます。
一方で、「シンドゥー」が中国(漢)に伝わると、
「身毒(しんどく)」と表記されます。
これに訛りが加わり「天竺(てんじく)」や「印度」となり、
この呼び方が、中国経由で日本に入ってきたのです。

この「インド」という呼び方は、あくまで外部からの呼称であり、
インドの中の人々は違います。
アーリヤ人の有力な部族に、「バラタ族」がいました。
この「バラタ族」にちなんで、彼らはインドのことを
「バーラタ」と呼ぶようになります。
そして、ヒンディー語が成立して以降は、
「バーラト(Bharat)」と呼ぶようになりました。

インド独立後の、1949年には「バーラト」も、
正式な国名と定めましたが、広く使われることはありませんでした。
これは、世界を規定しているのが、かつての宗主国、
イギリス側であるためと考えられます。

しかし、2023年のG20サミットをインドで開催した時に、
招待状に「インド大統領」ではなく、「バーラト大統領」という、記載がされていることが話題になりました。
ここからは、植民地の時代から脱却し、
「バーラト」という独立した国である!意思がうかがえます。

・信仰の起こり

アーリヤ人がインドに入ったBC1500年頃、
特定の宗教は無く、神々に讃歌を捧げる活動をしていました。
アーリヤ人が信仰したのは、様々な自然現象です。

この頃、人々は科学も技術もなく、
自然こそが命を脅かす脅威そのものでした。
占いや祈祷師、呪い師などが、雨を振らせたり、
祈りを捧げて豊作や安寧を願うことは、
古代文明において、共通することですね。

インドで特に重視されたのが、雷神「インドラ」と
火の神「アグニ」です。
そして、神々は人間の様な形をしているとされていました。
また、暴風神「ルドラ」同一視される、
「シヴァ」が牡牛を乗り物としていたため、
牛は神聖なものと認識されるようになりました。

・農業革命と身分制度

アーリヤ人が持ち込んだ技術「鉄器」により、
当時の農業は大きく発展し、生産性が向上しました。
食べ物が安定して取れ、暮らしが少し安定すると、
司祭や武人などの階級が生まれ、権力者が登場します。

余剰な富があるならば、「どのように再分配するか?」
こういう考え方が生まれるのは、いつの時代も同じです。
資本主義の現在においては、よりリスクを取った、
起業家(オーナー)や投資家がより多くの分配を得て、
給与を受け取る労働者への分配は少ないですね。

話は戻り、直接的に命を奪ったり、農業にダメージを与える、
自然災害は当時の人々にとって大きな脅威でした。
そのため、自然や神を祀る儀式が重要視され始め、
祭祀を執り行う人々の社会的地位は向上しました。

この流れの中で、「バラモン」と呼ばれる、
司祭者階級をトップとした制度が誕生し、
後のカースト制度へと繋がって行きます。
人種や家柄によって身分が固定され、
生まれて死ぬまで決して変わることはありません。
この制度は2023年の現在でも引き継がれており、
問題は根深く、平等な社会になっていません。

このバラモンを中心とした、身分制度を内包した、
「バラモン教」が始まったのです。

バラモン教とカースト制度は、
信仰と身分制度を結びつけた支配者にとって、
非常に都合の良い制度でした。
上位3階級の、バラモン(司祭者階級)、クシャトリア(王族・武人階級)、
ヴァイシャ(庶民階級)だけが、祭祀への参加が可能でした。

最下位のシュードラ(隷属階級)は祭祀への参加は認められず、
上位3階級への奉仕が義務づけられたのです。
そして、先住民がシュードラとして位置づけられたのです。

身分と仕事内容は厳しく管理され、
下位の身分は、給与の高い仕事が出来ない仕組みです。
しかし、近年のIT革命によって、
かつて存在せず、分類されていない仕事が生まれました。

「分類されていないなら、どの身分でもやれる!」
下位階級の人々は、ここに活路を見いだしました。
そして、ITの覇権を握る米国のマグニフィセントセブン、
MicrosoftとGoogleのCEOに、
インド人が就任するまでに至ったのです。

抑圧され続けた人々が、活路を見いだし成果をあげる。
人の能力や才能は、人種、家柄、などでは、
決して決められないということを、証明しています。

・バラモン教の歪み

バラモン教の中に組み込まれたカースト制度は、
最下層の人々の不満を高める構造であり、
当然徐々に歪みを生んでいきます。

そのような中、バラモンやクシャトリアの中から、
思想をめぐらせ、真理を探究する動きがでてきます。
インド哲学と呼ばれる考えが発展してきて、
「輪廻(りんね)」や「カルマ(業)」といった、
概念が誕生します。

そして、煩悩を断ちきり、解脱する、
解放されることを目指す人が現れました。
その中の一人が、シャカ族の国の王子
「ガウタマ・シッダールタ」、そう「釈迦」です。

釈迦は煩悩を断ちきり、解脱を目指して、
苦行を行いながら、道徳の重要性を広めて行きました。
そして悟りを開き、「ブッダ」と呼ばれるようになりました。
ブッダの死後、口頭伝承を弟子たちが経典として、
少しずつ整理していき、仏教の教義が定まっていきました。

・ジャイナ教の誕生

仏教と同様にカースト制度に異議を唱えた、
ジャイナ教が成立しました。
ジャイナ教は仏教よりも厳しく、厳格な規律があります。

生き物を殺さない
嘘をつかない
盗まない
淫らな行いはしない
所有しない

この5つの決まりを守って修行を行うのです。

仏教が世界中に広まり、世界の三大仏教
(キリスト教、イスラム教、仏教)となった一方、
ジャイナ教はインド国内に留まっています。
おそらくこの厳しすぎる戒律が、原因の1つと考えられますね。

一方で、「嘘をつかない」「所有しない」という教えによって、
人々の信頼を得やすく、さらには物欲が少ないという特徴があります。
そのため、ジャイナ教の信者には、
富裕な商人が多いことが特徴となっています。
まるで、現代のミニマリストのような考え方に近い部分がありそうですね。

・大王の襲来

西方(ヨーロッパ)で勢力を拡大していたアレクサンドロス大王は、
ヨーロッパ、エジプト、さらには中東を越えて、
ついにはインドまでやってきました。

その当時のインドは、強大な外的に脅かされることがなく、
小国同士で競い合っている状況でした。
最終的に、アレクサンドロス大王の部隊は、
兵が疲弊したためにインドから引き返しました。

しかし、外敵の襲来という強烈なインパクトをインドに与えました。
そして、インドにおいても小国がまとまった、
大きな国が形成されていくようになります。

史実として、アレクサンドロスの襲来以降、
正確な年代が記録されるようになっています。
この点を踏まえると、
インド史における大きな転換点であることは間違いありません。

・仏教の教えで政治を行う

アレクサンドロス大王の襲来で、
集まって大きくなり、外敵に耐える強い国になる動きがでてきました。
そして、BC300年頃に「チャンドラグプタ」によって、
「マウリヤ朝」が立てられ、北インドが統一されました。

マウリヤ朝の最盛期は、第三代の王、「アショーカ王」の時代でした。
この頃には、南端部を除くインドほぼ全域が統治されたとされています。
アショーカ王が仏教徒だったこともあり、国を治める方針として、
仏教が用いられました。

政策には、非暴力、博愛といった考え方が反映されました。
そして、手厚い保護を受けたため、
仏教は大きく広がり、現在のスリランカまで布教されたとされています。

アショーカ王の死後、マウリヤ朝は衰退していきました。
その後、バラモン出身の将軍、プシュヤミトラが王位を奪い、
「シュンガ朝」を創始しますが。
しかし、その支配域は、ガンジス川流域と西インドに限られました。
プシュヤミトラは、自身の立場であるバラモン教を優先し、
仏教を迫害したと言われています。

以後、インド全体を支配するような大きな国は現れず、
小国が興亡する時代が続きました。

政治と宗教は、いつの時代でも密接に関係していることが分かりますね。
ヨーロッパにおけるキリスト教保護ももちろんですが、
近年の日本の政治家が、特定の宗教団体を保護しているように見える動き、
歴史を学ぶと見えてくることがたくさんありますね。

2. 交流の時代が始まる

・南北の交易

チャンドラグプタによるマウリヤ朝が崩壊した後のインドは、
長年にわたり、大きな国が成立しない、
流動的な時代に入りました。

ギリシア人、中央アジアの遊牧民、様々な人が移動し、
それぞれに小国を立てていきました。
一方で、BC1-3世紀頃にはインドの西には古代ローマ、
インドの東には中国(漢)の二大勢力が栄えていました。

ローマから漢への陸路は、後にシルクロードと呼ばれることになり、
東から西へと商品が運ばれ、西から東へと金銀が運ばれました。
交流が盛んになる中で、現在のイランを通る交易路の一部が、
抗争によってしばしば通行できなくなりました。

そのため、一部回路を使ってローマへと渡る交易路が作られました。
大航海時代に探した、ヨーロッパから直接インドへ向かう航路を作る流れは、
この頃から存在したと言うことが分かりますね。

この交易路を抑えていたのが、西北インドの「クシャーナ朝」です。
クシャーナ朝は宗教全般を受け入れました。

クシャーナ朝を収めるカニシカ王はペルシアを中心に信仰されていた、
「ゾロアスター教」を信仰していましたが、仏教にも関心を示し、
仏典結集(ぶってんけつじゅう)という、
仏教の教えを正しくまとめる作業にも協力しました。

・仏像に見る交易

交流の証拠は仏像にも見ることができます。
そもそも初期の仏教では偶像が禁じられていましたが、
ヘレニズム文化の影響を受けて、仏像が作られ始めます。
偶像を作るという文化と同時に、仏像そのものも、
彫りの深い顔、ウェーブのかかった髪など、
ギリシア彫刻の影響を受けて作られたことが分かっています。

一方、同じ頃に北部のマトゥラーでは、
私たちのよく知る、丸みを帯びた仏像が作られました。
これらが、中央アジアを介して、
中国、日本へと伝わったのです。
これを北伝仏教と呼びます。

この対比として、セイロン島(スリランカ)からミャンマー、
タイ、東南アジアに伝わった仏教は南伝仏教と呼びます。

・再び統一

BC2世紀に来たインドでは、小国を再び統一して、
チャンドラグプタ一世が「グプタ朝」を成立させます。
このグプタ朝は長きにわたって栄え、
4世紀末から5世紀にかけて全盛期を迎えます。

この時代には、中国から僧侶がインドを訪れて、
経典を中国に持ち帰り、仏教を広めて行きます。
安定した時代が続いたため、仏教大学とも呼べる、
寺院が建ち並び、国内外の僧侶が学ぶようになりました。

歴史を学ぶと乱世、戦国、混乱といった時代は、
一見派手でストーリーとしては面白く見えます。
けれど、人類が、芸術、科学、文化を発展させたのは、
安定した時代であると言うことが分かってきて、
現代に生きていることに感謝しますね。

・文芸の発展

安定したグプタ朝の時代に、インドの古典文学も黄金時代を迎えました。
サンスクリット語が公用語とされて、宮廷を中心とした、
サンスクリット文学が栄えたのです。

文学だけでなく、天文学、数学も発達しました。
この時代のインドにおいて、
十進法による数学の表記法や、ゼロの概念が生まれました。

現在では、「アラビア数字」と呼ばれていますが、
「インド数字」がアラビア経由で中世ヨーロッパに伝わったのです。
そのため、「アラビア数字」と呼ばれるようになりました。

現在の世界が、ヨーロッパ基準で作られていることが、
非常によく分かるエピソードですね。

・ヒンドゥー教の起こり

安定したグプタ朝の時代に、現在、インド人の8割が信仰する、
ヒンドゥー教も成立しました。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教と異なり、
ヒンドゥー教には特定の開祖は存在せず、
唯一の聖典というものも存在しません。

複数の神々を信仰する多神教であり、自然崇拝から哲学まで、
ありとあらゆる要素を含んでいます。
このヒンドゥー教はアーリヤ人が持ち込んだ、
バラモン教によるカースト制度を内包しており、
国を治める仕組みとして、バラモン教の身分制度が復活します。

しかし、身分制度には変化が起こります。
グプタ朝の時代になると、
第三身分のヴァイシャ(庶民階級)は商人に、
第四身分のシュードラ(隷属階級)は農民へと変化しました。

これまでは第4身分のシュードラを儀式から排除しましたが、
シュードラに対しても儀式を施すようになったのです。
これは、儀式を行うことで金銭を得ていたバラモンが、
生計を維持する目的だったと考えられています。
最下層の最もマスの多いシュードラから対価を得ることで、
莫大な利益を上げる構造になっていたのでしょう。

こうした、流れの中でバラモン教の身分制度を維持しつつ、
ありとあらゆる要素を吸収しながら、
バラモン教の神々はシヴァ、ヴィシュヌといった、
新しい神々と融合し、複数の神、信仰、習慣をおりまぜた、
ヒンドゥー教という多神教に姿を変えました。

ヒンドゥー教に取り込まれたなかには、
そもそもバラモン教のカースト制度に反対して生まれた、
仏教さえも含まれています。

・ヒンドゥー教の聖典

ヒンドゥー教は唯一絶対の聖典は持ちませんが、
当時のインドで流行していた2大叙事詩、
「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」を聖典とすることで、
その人気をさらに高めていきます。

この2大叙事詩は過去から現在に至るまで、
様々な思考や文化に影響を与えている、
とてつもなく面白い内容となっています。

例えば、マハーバーラタの中の最終兵器が、
古代に核戦争が存在したことを示唆する、
などとも言われています。

その兵器としての要素は、「インドラの矢」として、
「天空の城ラピュタ」、「NARUTO」などに登場します。

また、ラーマーヤナは、主人公ラーマが猿神を引き連れて、
魔王を退治しに行くストーリーで、
中国の「西遊記」や日本の「桃太郎」になったのでは?
と言われています。

実際に、タイの民族叙事詩「ラーマキエン」は
ラーマーヤナを基に作られています。
さらにラーマーヤナの主人公、
ラーマ王子の妻の名は「シータ」であり、
ラピュタのヒロインの名として使われています。

ラーマという名前も漫画「うしおととら」の中で、
白面の者を生んだ主人公と縁を持つ少年として登場します。
そのシーンの舞台は古代のインドです。

このように遠いインドのヒンドゥー教の聖典は、
中国、日本を含む東南アジアの文化に、
とてつもなく強く影響を与えているのです。

「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」の詳細は、
「中田敦彦のYouTube大学」の動画で学ぶのがオススメです。

・多神教ならではの神々の融合

様々な神が存在するヒンドゥー教ですが、
特に信仰の中心、人気な神が「シヴァ」と「ヴィシュヌ」です。
そして、最も人気があるのが、創造と破壊の神のシヴァです。

シヴァはインダス文明の時代から存在しますが、
時代を経て、他の神々や、地方神の要素を取り込んで、
ヒンドゥー教の主神になっています。

もう1つの人気の神は、世界を維持する神、ヴィシュヌです。
ヴィシュヌは多くの化身を持つとされ、
ラーマーヤナのラーマ王子、マハーバーラタの英雄クリシュナ、
さらには仏教の開祖、ブッダですらヴィシュヌであるとされています。

つまり、仏教すらヒンドゥー教の一部であり、
ヴィシュヌを始めとするヒンドゥーの神々を拝むことは、
仏教を信仰することと同義と見なされたのです。

このようにして、各地の神々、様々な宗教を丸呑みして、
バラモン教の身分制度を含んだまま、
インド全土へと広がっていったのです。

唯一にして絶対の「神」のみが存在する一神教と違って、
複数の神が存在し、それぞれが魅力的なストーリーを持つことで、
土地や人々に浸透していったのがヒンドゥー教の特徴です。
その魅力によって、裏にあるカースト制度を納得させるという、
何とも巧妙な設計になっていると感じます。

3. イスラム教の誕生と侵攻

・イスラム勢力の乱入

グプタ朝の後、小国が並ぶ時代を経て、
北インドには600年代にハルシャ・ヴァルダナによる
「ヴァルダナ朝」が成立します。

そのころアラビア半島では、3大一神教の一つ、
イスラム教が誕生していたのです。

711年、イスラム王朝、ウマイヤ朝の軍隊が北西部から侵攻し、
現在のパキスタンにまで到達しました。
ここはまだイスラム覇権の予兆でしかありません。

そして、11世紀から本格的なイスラム勢力のインド進出が始まりました。
11世紀に「ガズナ朝」、12世紀末には「ゴール朝」が、
北インドに押し寄せました。

ゴール朝軍の進軍の中で、インド仏教の最後の拠点であった、
ヴィクラマシラー大学を破壊しました。
これにより、ヒンドゥー教が広がり、
衰退を続けていたインド仏教に最後の一撃が加わりました。

このときをもって、インドの仏教教団は、
ほぼ消滅したと考えられています。

アーリヤ人の持ち込んだバラモン教から始まり、
身分制度に反対する形で仏教が生まれました。
そして、バラモン教の身分制度を含んだまま、
ありとあらゆる神、神話、文化を飲み込んで、
多神教のヒンドゥー教が誕生しました。

イスラム教が侵攻し、仏教を消滅させました。
ここから先、支配者側のイスラム教、
これに対する被支配者側のヒンドゥー教という、
2大勢力が対抗する時代が長く続いていきます。

・奴隷王朝の誕生

ガズナ朝、ゴール朝というイスラム勢力が続いた後、
新たに王朝を立ち上げたのは、ゴール朝のマクムール(奴隷)、
「アイバク」です。
アイバクは「スルタン」と自称しました。
これはイスラム教「スンナ派」の「君主」を意味します。

何で奴隷が君主に?と感じるかもしれませんが、
当時の奴隷は主に軍事を任されていて、
軍事訓練を専門に受けていた人々です。
軍部が反乱を起こし、軍事政権を立ち上げた、
というように理解しています。

アイバクが立ち上げた王朝は、
「奴隷王朝」と呼ばれることになりました。
奴隷王朝の後もイスラム政権がたち、
デリーに都をおいて、約300年イスラム支配が続きます。

・イスラム教とヒンドゥー教の共存

インド大多数はヒンドゥー教徒という状況で、
どのようにしてイスラム教徒による王朝は、
国を支配し、まとめ上げていたのでしょうか?

一神教のイスラムからすると、多神教は許しがたい存在です。
しかし、安易に改宗を要求すると、反乱に繋がる恐れがあります。
そして、ヒンドゥー教徒たちは、カースト制度により、
身分制度を軸として統制が取れているという利点もありました。

表に示すように、ヒンドゥー教とイスラム教は明確に異なります。
この融合は、極めて難しいと考えられます。

折衷案として、「ジズヤ」という人頭税を非ムスリム(非イスラム教徒)に、
支払わせることで、共存する方針を取りました。
その結果、ジズヤの支払いを逃れたい人や、カースト制度で、
差別を受けていた人は、イスラム教へと改宗することもありました。

さらに、「スーフィー」と呼ばれるイスラム神秘主義者の修行が、
ヒンドゥー教の修行に似ていたこともあり、
だんだんとインドにおいてもイスラム教徒が増えてきました。

・イスラム教とヒンドゥー教の融合を目指す

国を支配する少数がイスラム教とであり、
支配される大多数がヒンドゥー教徒という、いびつな関係から、
2宗教を統一しようという動きも起こりました。

イスラム教のアッラーとヒンドゥー教のヴィシュヌが、
同一の存在であり、両宗教の本質は同じであるという考え方です。
この考え方を広めたのが、
「カビール」と「ナーナク」という2人の宗教家です。

そして、ナーナクは「シク教」を創始しました。
シク教は現在でもパンシャー部地方に多く存在していて、
人口の過半数を占めています。
シク教では、カースト制度、苦行、偶像崇拝、
これらの仕組みや行為が禁じられています。

・ムガル帝国の成立

16世紀になると、「バーブル」によって「ムガル帝国」が成立します。
「ムガル」は「モンゴル」を意味する、
ペルシア語の「ムグル」がなまったものと言われており、
モンゴル民族による王朝です。

ムガル帝国はモンゴル系民族の色合いが強く、
君主は「スルタン」ではなく、「王」や「皇帝」を意味する
「パードシャー」という称号を用います。
この表現はトルコ・モンゴル系の君主が用いてきたものです。

「スルタン」がイスラム世界の称号であるのに対して、
「パードシャー」は宗教的な意味合いはなく、
多民族多宗教の国に適していたのかもしれません。

ムガル帝国支配となり、その3代目「アクバル」は、
帝国随一の名君として称えられています。
アクバルはイスラム教とヒンドゥー教という、
強烈に相対する宗教の融和を図りました。

その政策の一つとして、非ムスリムに課していた
ジズヤを廃止しました。
キリスト教にも関心を示し、カトリック宣教師を招いて、
宗教間の交流も行ったのです。

また、アクバル自身もヒンドゥー教徒を妻にとり、
宗教対立の関係を緩和していったのです。

・ムガル帝国の終焉

第5代皇帝、シャー・ジャハーンの時代に、
ムガル帝国は財政的に極めて豊かになり黄金時代を迎えました。

しかし、シャー・ジャハーンは宗教への寛容さを持たず、
ヒンドゥー教寺院の建築を禁止しました。
また、世界遺産にも登録された美しすぎるお墓、
「タージ・マハル」を建築するなどして、
支出を増大させ、国が傾いて行きました。

第五代シャー・ジャハーンの時代に傾きかけた、
ムガル帝国を引き継いだのが、
第六代皇帝「アウラングゼーブ」です。

アウラングゼーブは、父より厳格なイスラム教徒であり、
他宗教に対して、さらに厳しい政策をとりました。
宮廷内における、非イスラム的な儀式を廃止するに留まらず、
ヒンドゥー教の寺院を破壊して、その跡地にイスラムのモスクを建造しました。

当然、ヒンドゥー教徒からは猛烈な反発が起こります。
さらに、非ムスリムに対する人頭税である、
ジズヤを復活させ、重税を課したのです。

これにより、ついにラージプート戦争と呼ばれる、
反乱が起きました。
これ以降、内乱と経済難の負の連鎖が続き、
ムガル帝国は弱体化を続けていったのです。

4. 大航海時代の幕開け

16世紀のムガル帝国成立前後から、ヨーロッパ人はインドに進出します。
絹や香辛料を輸入するのが目的でしたが、
陸路を使うと中東のムスリム商人がマージンを取り、
割高で輸入することになり、うまみが減ります。

直接インドと貿易を行うために、海路を探しました。
そんな中、ポルトガル人のヴァスコダガマが、
アフリカ大陸を迂回する航路でインドに到達します。

一方、コロンブスは西回りでインドを目指した結果、
アメリカ大陸を発見しました!

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そのため、当時のヨーロッパ人は、インドとアジアを「東インド」
アメリカ大陸を「西インド」と呼んでいました。

そんな中、イギリス王室はインドとの貿易を独占するために、
「東インド会社」を設立しました。

インドからヨーロッパへの輸出品は香料から始まり、
モスリン、更紗(さらさ)、キャラコ、といった、
織物へと移り変わって行きました。

ここで設立された東インド会社は、資本家から出資を募って運営する、
世界最古の株式会社の一つです。

・イギリスによるインド支配の始まり

ムガル帝国が弱体化していく中で、イギリス東インド会社は、
インド各地に貿易の拠点を設置しました。
そして、インドの現地人を兵として雇い入れ、
各地域の政治への影響力を強めて行きました。

イスラム教徒による、ヒンドゥー教徒を支配する体制へと、
イギリスを筆頭とする、キリスト教勢力が乱入してきたのです。
イギリス東インド会社は、貿易だけでなく、
軍事、政治までを行い、
インドの支配域を徐々に広げて行きました。

・イギリスによる産業革命

時は流れ、18世紀を迎えたイギリスでは産業革命が起こります。
蒸気機関を使って、紡績を行うようになり、
インドから輸入していた綿織物を工場で安く大量に作り、
売り手側に回っていくのです。

アーリヤ人が鉄器を持ち込み、農業改革によって、
インドのドラヴィダ人を支配し始めたように、
産業革命により、再びインドは支配される状況に陥ります。

綿織物を生産していたインド国内の職人は大打撃を受けます。
さらに東インド会社は、黄麻(こうま, 麻の一種)、コーヒー、アヘンなど、
これらの栽培をインドの農民に広めて行ったのです。

先進国は今ではIT産業を自国で行い、利益の出なくなった衣類の生産を、
東南アジア、南アフリカに行わせています。
昔も今も構造は同じで、イノベーションが生産効率を高めると、
最も儲かる仕事を強い国が牛耳り、儲けの小さい仕事を、
弱い国に押しつけるようになるのです。

インドの富を吸い上げて豊かになったイギリスは、
嗜好品として茶が流行しました。
繊維製品をインドに売り、中国から茶葉を買い、
インドに作らせたアヘンを中国(清)に売るという、
三角貿易を成立させました。

アヘンを買った中国では、アヘン中毒者が増えました。
このことが問題となり、後の「アヘン戦争」へと繋がって行きました。

もう一つ三角貿易と呼ばれる形に、
ヨーロッパから綿織物をアメリカ大陸に輸出し、
アメリカ大陸で安く作らせた、砂糖、綿花などを輸入する。
アフリカ大陸に武器を輸出して、アフリカから奴隷をアメリカ大陸に輸出する。
これも大航海時代に行われた、三角貿易です。

繰り返しになりますが、イノベーションには光と影があります。
産業革命と航海技術の発達で、全世界が一つに繋がり、
支配者側と被支配者側へと分断されていきました。

・イギリスが持ち込んだ価値観

19世紀の引導は、立場、地域、言語、信仰がバラバラでした。
人々をまとめ上げるには、1つのストーリーを共有することが有効であり、
それはヨーロッパにおいてはキリスト教です。
しかし、多宗教国のインドには通用しません。

イギリスはインドを効率良く支配しようと考え、
自分たちと文化や価値を共有するために、
インドにおいてエリート層の育成を始めました。
そして、1835年から各地で英語教育をスタートさせます。

ヒンディー語(ヒンドゥー教)、ペルシア語(イスラム教)をさしおいて、
英語を公用語として定めたのです。
これによって、言語と、価値観を共有し、
インドの支配を進めていったのです。
これは、もちろん当時のイギリスからの押しつけだったのですが、
後になって、IT大国として成り上がるときに
英語が使えるということは大きな武器になったとも考えられます。

そして、イギリスから英語、文化を学ぶ中で、
価値観が変化していき、カースト制度や男女差別についても、
インド国内で見直しを進める動きも現れました。

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・インド国内の大反乱

イギリスは産業革命が進み、自由貿易が盛んになりました。
結果として、東インド会社による貿易の独占が見直されました。
そのため、東インド会社はインドを統治する機関となっていきます。

イギリス支配が浸透していく中で事件が起こります。
きっかけは東インド会社が雇っていた、インド人兵士に支給されていた武器です。
その武器の弾薬は、包み紙を歯で噛んであける様式でした。
そして、その包み紙には油脂が塗られていたのです。

「油脂の何が問題なの?」と日本人であれば感じると思います。
しかし、牛の脂ならば、牛を神聖視するヒンドゥー教徒には許しがたいことです。
また、豚の脂であったならば、豚を不浄なものとするイスラム教徒には、
耐えられないことであったのです。

日本人と同様に、キリスト教国のイギリスでは考えが及ばなかったのでしょうか。
この、傭兵から始まった反乱は一気にインド各地に広まり、
「インド大反乱」と呼ばれます。

・英領インド帝国が成立

東インド会社は、傭兵から始まったインド大反乱の鎮圧に成功しました。
しかし、反乱の責任を取る形で、インド内政における全権限を、
イギリス王室に献上して、「インド統治法」が制定されました。
いずれにせよ、インド側から見たら全てを押しつけられていますね。

このインド統治法は1858年に成立し、このときをもって、
ムガル帝国が完全に滅び、インドはイギリス領となったのです。
宗教や民族を軸に考えると、キリスト教徒による、
ヒンドゥー教徒、イスラム教徒を中心とした、
多宗教、多民族国家の統治となります。

この難しい手綱をうまく操るためには、
インド人全員が団結して反乱を起こさせない必要があります。
そのための手段として、分割統治を採用しました。

例えば、カースト制度による身分の違いや、
宗教の違いによって、グループを分けたのです。
これによって、「インド人」というアイデンティティーによって、
一緒にイギリス支配を抜け出そう、という流れが生じないようにしました。

同時期にイギリスは、地中海と公海を結ぶ、
スエズ運河の経営権を手に入れました。
これにより、ヨーロッパから、インド、アジアへの航路を
大幅に短縮させ、大英帝国の支配域を拡大させて行きました。
この、大英帝国の勢力拡大をになったのは、
実はインド人兵だったのです。

・独立運動の始まり

当時のインドはイギリスから重税が課せられていました。
この重税が独立への意識を高めていきます。
これは、アメリカの独立戦争のきっかけも、
お茶や紙に対する課税であったことと共通しますね。

さらに、インドでコレラが流行したことや、
大飢饉が発生したことなどが重なり、
インド人の怒りが統治国イギリスへと向かっていきます。

ここから独立運動が始まるのですが、
大多数のヒンドゥー教徒と、かつて支配者側であった、
イスラム教徒は上手く連携ができません。

この対立関係をイギリスは利用しました。
少数派であるイスラム教徒の、
ムスリム連盟と友好的に接することで、
大多数のヒンドゥー勢力の独立運動を牽制したのです。

・第一次世界大戦

20世紀に入り、ヨーロッパを中心とした帝国主義が広がりました。
これを背景に、ついに1914年、第一次世界大戦が始まりました。

インド本土は戦場とはならなかったものの、宗主国イギリスから、
戦争協力が求められました。
結果として、144万人以上の兵士や作業員が、
ヨーロッパや中東へと送られました。

さらに、軍事費捻出のための増税、衣類、車両、船舶など
ありとあらゆる協力を要請されたのです。
そして、この見返りとして、インド人の政治参加と、
インドにおける自治権の拡大を約束したのです。

第一次世界大戦は、イギリスを含む連合国側が勝利しました。
しかし、協力と引き換えの条件であった先の約束は守られませんでした。
そのため、独立運動はイギリス領のインドを含めた、
アジア各地の非支配領地で激化していきました。

その一方で、イスラム教国家であるオスマン帝国が、
第一次世界大戦における敗戦国の一つとなりました。
イスラム教の地位全体が貶められる危険があるとして、
各国のイスラム教徒たちが立ち上がり、
「ヒラーファト運動」が始まりました。

インド国内でもこの運動が起こりました。
これにより、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒は、
うまく足並みを揃えることができず、
独立に向けた動きは、思うように進みませんでした。

・非暴力による独立

モハンダス・ダンディーはインドの独立運動をリードした1人です。
スローガンに「非暴力・非服従」を掲げ、
イギリスに従わず、自給自足を目指す運動を行いました。

ガンディー自身はヒンドゥー教徒でしたが、
カースト制度による差別を批判しました。
そして、イスラム教徒とも協力関係を結びました。

しかし、ガンディーは活動の一部を理由に逮捕されてしまいます。
指導者が不在になると、再びヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間で、
上手く調整ができなくなり、方針の違いが目立ち始めます。

・第二次世界大戦

ガンディーを中心として、インドの独立に向けた動きは、
少しずつですが進んで行きました。
一方で、世界は恐慌によって混乱し、第二次世界大戦が始まりました。

再びイギリスから戦争協力を求められたインドでしたが、
今度は言いなりにはなりません。
インドの独立を問いただし、戦費はイギリスが負担することを条件に、
再び戦争へと協力したのです。

この結果、大戦後はイギリスとインドの経済関係は逆転します。
この点を補足すると、2023年においてインドの人口は世界一位に達し、
ついに「GDP」がアメリカ、中国、日本、ドイツ、に次ぐ、第5位です。
イギリスを追い抜いたことは大きな意味を持ちます。

この裏で、イスラム教徒は戦争に協力的な態度をとりました。
それは、イギリスへの協力を通じて自分たちの立場を、
より良い方向へ持って行きたいという思惑があったからです。

第二次大戦後、勝利したイギリスを含む連合国側は、
ドイツや日本の侵略行為を批判しました。
しかし、連合国側も植民地支配をしているので、
自分たちの行為を正当化することが困難になってきました。

このような流れで、1947年8月15日、
ついにインドは独立しました。
なお、その前日の1947年8月14日に、イスラム教が多い地域は、
パキスタンを建国する形で分離独立しました。

11世紀から常に揉め続けてきた、イスラム教とヒンドゥー教による国が、
21世紀の現在も隣り合わせでいるのです。
国境一帯は地政学的リスクが高い状況が続いています。

・独立後のインド

独立した直後、インドとパキスタンは早速戦争を始めます。
なんと、独立2ヶ月後の10月には、
「第一次印パ戦争」が始まりました。
原因はイスラム教とヒンドゥー教で、
インド側につくか、パキスタン側に付くか、
国境付近でもめ始めたことです。

独立後もガンディーは、宗教対立を解消するための運動を続けました。
しかし、一部の人たちから強い反発を受けていました。
そして、1948年に暗殺されてしまうのです。

第二次大戦後、インドを始めとしたアジア諸国の多くは、
工業の規模が小さいため、一部社会主義の要素を取り込み、
国が主導して計画経済政策をとりました。
先進国に依存していたものを、
自国で生産できる体制を目指して行ったのです。

・冷戦の狭間のインド

戦後の世界は、米国を中心とした自由主義陣営と、
ソ連を中心とした社会主義陣営の冷戦体制となります。
「冷戦」の名の通り、2大大国の米ソは直接戦争しませんが、
朝鮮半島、ベトナム、中東など、様々な地域で、
米ソを後ろ盾とした代理戦争が行われました。

さらにその後は、経済力を競い合ったり、
宇宙開発を通じて科学技術力を競い合ったり、
米ソが争う関係は現在までも続いています。

話は戻りますが、インドは自由主義陣営、社会主義陣営、
どちらにも属さずに、非同盟中立政策をとりました。
そして、戦争後に大国の支配から脱した、
アジア、アフリカ、中東諸国との連携を強めて行きました。

そんな中、インドは別の隣国、中国と国境紛争を起こします。
この印中国境紛争では、中国側の優勢で停戦しました。
インド、パキスタン、中国はカシュミール地方の権利争いを、
2023年現在においても続けていて、解決の目処は立っていません。

敵の敵は味方ということで、中国はパキスタンに近づき、
アメリカがパキスタンを軍事支援したため、
インドはソ連に近づいて行きました。
インドは常に隣国パキスタンの脅威にさらされたため、
軍事力を高める必要性に推されて、核実験を開始しました。

この流れで、ソ連と「印ソ平和友好協力条約」を結びました。
インドは社会主義国の色合いを濃くし、
民間企業間の自由競争が進まなくなり、経済は振るいません。

ここにオイルショックが加わり、国は不安定になります。
ここから少しずつ、アメリカ、中国とも友好関係を結ぶようになり、
湾岸戦争による経済危機、ソ連の崩壊を経て、
自由主義の色合いを強めて行きました。

・激化する宗教対立

1990年代、自由主義によりめざましい経済成長を遂げたインドですが、
再び宗教対立の問題が勃発します。
国内で大多数のヒンドゥー教徒が、イスラム教の敵視を行いました。

この背景には、近隣のイラン、パキスタン、アフガニスタンにおける、
イスラム原理主義の高まりへの警戒や、
アメリカとロシアのパワーバランスの崩壊などがあります。

インドは核実験を行い、軍事力で周辺国を警戒しましたが、
対抗するようにパキスタンも核実験を行い、
緊張を高めて行くことになりました。

・世界大国へと成長

国内外において、宗教、政治の問題は抱えていますが、
経済的には大きく成長を続けました。
2014年、モディ首相が「モディノミクス」と呼ばれる政策を進めます。
そして、2019年にはGDP(国内総生産)が世界第五位となります。

この背景には、他国を圧倒する人口の多さが存在します。
2023年時点では、中国を抜き、世界一位の人口となっています。

自由主義、構造改革、さらには人口増によって、
インド経済は力強く成長を続けているのです。

一方で、周辺国の中国、パキスタンとの国境を巡った問題は、
いまだに解決の目処は見えていません。

インド経済を支える産業の柱となっているのが、IT、情報技術です。
いまだカースト制により、身分による職業の制限がありますが、
新しい職業である、プログラマー、システムエンジニアは、身分制限がありません。
そのため、このチャンスをものにしたい、
志の高い若者が多くITを勉強し、仕事に打ち込んだのです。

インド国内のベンガルールは、インドのシリコンバレーと呼ばれ、
国内外のIT企業がオフィスを構えています。
また、公用語の一つが英語であるため、
インドを飛び出し、国際的に活躍しているインド人も多いです。

ハーバード大学で教授となり、ノーベル経済学賞を受賞した、
アマルティア・セン。
米Microsoft社のCEOとなったサティア・ナデラや、
同じくGoogleのCEOとなったサンダー・ピチャイがいます。

話はそれますが、やはり世界経済の中心はアメリカだ!と感じてきます。

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イギリス支配の名残として、英語が準公用語となっていることが、
インド人の世界進出を後押ししていることは、
何とも興味深い歴史の流れですね。

このようにインドは、人口だけでなく経済においても、
その存在感を大きくしています。
しかし、インドには現在においてもアーリヤ人がもたらした、
バラモン教に端を発するカースト制度。
その身分制度による、就労差別、結婚差別が残っています。

さらには生活インフラの貧弱さ、宗教対立が改善すべき課題となっています。
国が豊かになり、社会全体がより良いものになることが期待されます。

「一冊で分かるインド史」には、ここには書き切れない、
より正確な歴史、文化、政治の流れはもちろん、
もっと面白いインドのことや、「インドの偉人」「秘密コラム」
などおもしろい情報が満載です!
この記事を読んで少しでも興味を持った方は、
是非一度、手に取ってみて貰えると嬉しいです。

今回の記事は以上です。

 

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